若柳流の日本舞踊 代々の歴史 二世家元吉蔵の似顔絵羽子板

若柳流代々の歴史

若柳流の歴史

1893年(明治26年)第1章

1917年(大正6年) 第2章

1944年(昭和19年)第3章

1974年(昭和49年)第4章

初世家元若柳壽童
若柳流創立。若柳吉松と名乗っていたが、還暦を期に壽童と改名。
初世家元若柳壽童(大正6年)没
高弟の若柳吉蔵 二世家元を継承。
二世家元若柳吉蔵没
長女の若柳吉世が、西家元として継承。
西家元若柳吉世没
長女の若柳吉世が継承。

第1章創流

若柳壽童

明治26年、若柳壽童が創流。
12歳の時、花柳流家元・花柳壽輔師の門弟となり、他の追随を許さずと、高く評価された天賦の才能を壽輔師に認められ、師自らの初名の「芳松」を与えられ、名取となる。
師と共に各座の振り付けに従事し、家元不在時の代稽古や、吉原自宅で門弟の稽古、柳橋への出張稽古に当たる。30歳の時突然商業界に転進するが、舞踊界から多大なる損失と、熱心に復帰を懇請され、再び舞踊界へ戻る。復帰後、絶大な賞賛が贈られ、名人と称されるようになった。48歳の時、壽輔師と意見を異にし独立。本名の若林と花柳に因み、若柳流を創立。若柳芳松と名乗る。以後劇場から離れ、花柳界の師匠として活躍。
明治38年、還暦を機に若柳壽童と改めた。

第2章満流

若柳吉蔵

大正6年に壽童が他界。実子が皆父の偉業を継ぐ意思を持たず、壽童未亡人及び門弟たちの懇請により、若柳吉蔵が二世を継ぐ事になった。
吉蔵は落語界の第一人者である初代名人・三遊亭圓遊の長男で、15歳の時壽童に入門。17歳で名取となる。家元襲名後は、益々流派の興隆に務め、若柳舞踊研究会を設立。門下の教養に全力を注ぎ、意欲的に新作を発表し、本州はもちろん、朝鮮、台湾、満州に至るまで発展普及に努めた。又、大日本舞踊連盟の専務理事として、一流派だけでなく、日本舞踊界全体の為に大きく貢献。東奔西走の日々を送った。

横山大観画伯より寄与の「霊峰富士」の屏風の前にて

第3章起流

若柳吉世

二世吉蔵が昭和19年に亡くなり、長女の吉清が、父の偉業を継ぐ事に邁進。戦争、戦後の混乱期の中、京阪神に於いてよく流派を守り、昭和21年には、京都南座にて吉蔵三回忌追善舞踊会を盛大に開催する。昭和25年吉世と改名。その芸風は「品位のある優美さ、華やかさと独特の美しさ」と評価をうけていた。

父、若柳吉蔵と共に踊る若柳吉世

第4章興流

若柳吉世

現家元で、昭和49年母吉世他界直後、吉世童から吉世に襲名。
6歳のおり、祖父吉蔵主催若柳会、東京日本橋倶楽部にて「関の小満」と、母吉世の橘平で「靭猿」の猿が初舞台。舞の名手、武原はん氏に師事。母吉世主催の清柳会、吉世会を助け、振り付け、新作の発表、自身のリサイタル、テレビ等で活躍。継承後は「若柳流を正しく伝承普及し、若柳流を学ぶ者の技芸向上と親睦を図り、文化の高揚発展、また舞踊を通して世界の日本人としての人格形成に寄与すること」を目的とした、若柳舞踊教会を設立。平成12年、大阪市民文化功労賞を受賞。平成22年に本拠を、兵庫県芦屋市から、東京都練馬区に移す。

「八段目道行」母初代・吉世と共に  「都風流」左・初代吉世、右・吉世

第5章躍流

若柳壽童

現家元、吉世の長女。三歳のおり「藤娘」で初舞台。12歳の時、歌舞伎俳優の中村芝翫丈に師事。古典舞踊の他に、新作として、泉鏡花原作「海神別荘」を、青井陽治脚本・演出、宮本亜門振り付けによるミュージカルを上演。「お夏清十郎」を題材にバレエと日本舞踊による「愁恋譜」を上演。(清十郎に法村牧緒氏)昭和62年から、神戸学院女子短期大学の非常勤講師を務めた。又、創流百周年を記念して、大阪リーガロイヤルホテルにて歌のディナーショーに挑戦。その他ラジオ出演、講演など活動。